おもしろコラム 3月号
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野村證券の創業者、野村徳七翁には、「よく働きよく遊べ」の遺訓があり、今でも、野村證券には、そういう社風が生きていると聞く。昭和三十年代、野村證券に君臨した奥村綱雄、瀬川美能留といった人たちは、同時に遊びのほうも他社の追従を許さないと言われたとか。ところが、よく見ていると、野村證券がよく「遊んで」いるのは、主に、証券業界が好調のときであり、一旦、証券不況となると、一変した。野村證券について、三鬼陽之助という、財界記者が遺した古い経済記事がある。三鬼翁の記事から、その辺を抜粋すると、「不況襲来の昭和38年後半から40年の前半にかけての野村の幹部連の活動が、じつにめざましかった。会長、社長をはじめとして、幹部総がかりの体制で、いわゆる新規投資層の開拓に、地方の農村・漁村をかけめぐったのである。これに対して、山一では、地方支店の従業員をはぶけば、支店長以下幹部社員たちは、この非常時にあって、遊ぶでもなく働くでもなく、土曜日の午後になると浮かぬ顔でゴルフに出かけるというありさまであった。軍隊では、賢明な指揮官であればあるほど、ここ一番の突撃という前夜など、兵士たちをよく遊ばせ、そしてよく眠らせるという。ビジネスの世界においても、これと同じことが言えるのである」と。もっとも、遊びという意味では、「格差社会」などと言われながらも、普通のOLさんたちが、フランスだ、エジプトだハワイだ・・・と、海外に出かけている。現代の日本人は、ある意味、驚くほど上手に実践しているのではなかろうか。天正10年、宿敵、武田勝頼を滅ぼし天下統一をほぼ、確実なものにした、戦国の覇王、織田信長は、帰途、徳川家康に案内させて、富士山を観光している。戦国の覇者にして、事実上の日本国王と言っても過言ではなかった信長にして、この程度だったのである。(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2007-03よく遊びよく働け、野村徳七の教え

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