おもしろコラム 3月号
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昭和時代、極道和尚と呼ばれ一時代を築いた今 東光という人物がいます。この人は、その豪放磊落な人柄もあり、まあ、良いにつけ悪いに付けエピソードには事欠かない人でしたが、中で も私が忘れられない話に「絶望するなかれ」というものがあります。 大正3年(1914年)、16歳の今 東光は、女性問題を咎められたことで教師を殴り、学校を退学処分になったことにより、町にいられなくなり、上京すべく、独り、駅のホームに立ちます。当然、一人の見送りもなく、他には人もまばらで、がらーんとしたホームで、不意に、誰かが隣に立つ・・・。フロックコートに山高帽という出で立ちで身を固めたその人物は、よく見ると何と、退学になった学校の校長先生だったそうです。 校長と言っても、当時の校長は今とは比べものにならないくらいステイタスが高い時代ですから、怪訝な顔をしていると、突然、「絶望するなかれ」と一言・・・。さらに、困惑する少年に構わず、校長は前を見つめたまま、「君にこの言葉を贈ろう」と言い、こう続けたと言います。「絶望したときがすべての終わりである。絶望さえしていなければ、まだ、事は終わったわけではない。決して絶望するなかれ」うろ覚えで書いてますので、言葉の詳細は違うかもしれませんが、ニュアンス的には大筋はこのようなものだったと思います。 「敗戦とは、司令官が負けを認めた瞬間に決定する」と言う定義があります。つまり、司令官が負けを認めてないうちは、どれほど苦戦していても、当然、撤退命令も出ないわけで、まだ、負けてないわけです。 フランスの英雄ナポレオンもロシアとの激戦の際、ロシア軍の猛攻の前に、「もうだめだ。負けた。明日の朝になったら撤退を発令しよう・・・」と思っていたところ、夜が明けたらロシア軍の方が撤退していた・・・という話があります。ロシア軍はロシア軍で、フランス軍の敢闘の前に「負けた」と思ったということなのでしょうが、世の中とはとかく、こういうことが起こり得るもので、この校長が言ったのも、そういう意味だったのでしょう。けだし名言ですね。絶望して、投げやりになったときに終わりが始まる・・・と。 しかし、この言葉の意味もながら、さらにこの言葉を効果的にしているのが、このシチュエーションでしょう。地域の名士である校長が、これまた、退学処分になるなどというとんでもない問題児を独り、見送りに来た・・・と。あるいは、校長は駅まで来て、もし、見送りの生徒が数人でもいたら、一言も声をかけず、その場を立ち去ったのかもしれません。なぜか、そんな気がします。(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか) 2001-03決して絶望する事なかれ
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